【読書】セミリタイアとは待つこと。

最近読書してます。

戦争文学を読んでいたら、太宰治の待つという短編小説にセミリタイアマインドを見ることができました。

世の中の人というものは、お互い、こわばった挨拶をして、用心して、そうしてお互いに疲れて、一生を送るものなのでしょうか。私は、人に逢うのが、いやなのです。

中略〜

いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。大戦争がはじまってからは、毎日、毎日、お買い物の帰りには駅に立ち寄り、この冷いベンチに腰をかけて、待っている。誰か、ひとり、笑って私に声を掛ける。おお、こわい。ああ、困る。私の待っているのは、あなたでない。それではいったい、私は誰を待っているのだろう。旦那さま。ちがう。恋人。ちがいます。お友達。いやだ。お金。まさか。亡霊。おお、いやだ。
 もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。たとえば、春のようなもの。いや、ちがう。青葉。五月。麦畑を流れる清水。やっぱり、ちがう。ああ、けれども私は待っているのです。胸を躍おどらせて待っているのだ。眼の前を、ぞろぞろ人が通って行く。あれでもない、これでもない。私は買い物籠をかかえて、こまかく震えながら一心に一心に待っているのだ。

 

この作品『待つ』では20歳の娘が駅のベンチに通い何かを待っているという設定。

大戦争とはアジア太平洋戦争のこと。

20歳の娘が戦場に行けるわけでもなく、世間との軋轢、身近な人でさえ煩わしく感じる中で何かを待っている様が切なくそれでいて希望に溢れている。

 

セミリタイアを達成した私も、何かを待っている感覚があります。でも、社畜だった頃の自分は待つ娘が駅で見かける忙しない群勢と例えても良いだろう。

 

上り下りの電車がホームに到着するごとに、たくさんの人が電車の戸口から吐き出され、どやどや改札口にやって来て、一様に怒っているような顔をして、パスを出したり、切符を手渡したり、それから、そそくさと脇目も振らず歩いて、私の坐っているベンチの前を通り駅前の広場に出て、そうして思い思いの方向に散って行く。

半世紀前の大戦下の日本でさえ、ほとんどの人が食べるために働き、国のために生きていた。

自らの生活すらままならない中、国にも奉公しなくてはならなかった。

 

本来、自分のための人生は自由で誇り高きものである。待つという表現よりも取り戻すという表現が正しいであろうか。

ジャングルの中で弱肉強食を生きる獣たち。

彼らは誇り高く一瞬を生きるために命を懸ける。

高度な文明を築き便利な暮らしを享受する一方、失われたものを取り戻すために、その出会いを懸命に待つ事が必要だ。

 

セミリタイアとは待つことなのである。

 

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